先週、知り合いである高校の後輩の女の子の死を知った。昨年末、大学の登山サークルの合宿で山に登ったまま行方不明になっていたのだ。この時期になって捜索が再開され遺体で発見された。
 後輩と言っても、直接部活とかの後輩ではなく部活の後輩の友達と言うことで何回かあったことがある程度の後輩だった。それでも、非常に明るく、本当に山が好きそうな子だったことをよく覚えている。
 そして、そういう明るい表情を思い出すと少し悲しくなる。さらに、その子と仲のよかった人からいろいろなことを聞く。発見されて帰ってきた姿。葬儀の時の最期の姿。を聞くと正直、つらくなる。

 僕にとって同世代の知り合いの死は2回目になる。最初は中学校の同級生の死で高校1年の時だった。そのときの僕の想像力が乏しかったせいか、死という物を全く実感できずあまり悲しんだ記憶がない。
 今回、なぜか妙に悲しいのだ。一つは、僕が死をようやくイメージできてきたと言うことなのだろう。もう一つ、僕が“生きること”を意識するようになってきたからだと思う。
 死んだ彼女は山が好きだった。「このまま山を続けていたら、エベレストだって登るよ」と山岳部の顧問が認める様な子だった。そういう人に対して「山で死ねたなら本望だ」と言う人がいる。
 僕はこういう言い方は嫌いだ。自分の死期を悟り山で死のう、と思い山に行くのなら別だが、まだまだやりたいことがいっぱいあるのに、登りたい山がいっぱいあるのに、死ぬって言うのはどこまでも幸せではない。
 それに、何か好きな物がある人は死のうなんて思わない。生きて好きな物を活かしていこうと思う。死んだらなにもできなくなってしまう。もう、自分の好きなことをすることもできないし、自分が好きなことを他人に伝えていくこともできない。

 でも、もう彼女は死んでしまった。彼女自身なにもすることはできない。後は僕らが伝えるしかない。彼女が好きだったこと、物。彼女だったらこう考えるだろう、と言うこと。

 彼女はとても穏やかな、眠っているような表情で死んでいたそうです。
 ご冥福を祈ります。


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