落語

 先週、テレビで上方落語の桂米朝師匠の話をしていた。おそらく戦後間もない時期、師匠が落語の業界に入ろうとしたときには上方落語はほとんど死に体だった。

 最初に弟子入りしようとしたときは「落語では食っていけない」と断られたという。その後次々に誰かに師事しようにも、当時、師匠格の人が次々になくなっていた。結局師匠はほとんど一から上方落語を復興しなければならなかった。師匠は江戸時代の落語を書き残している書物や、当時の風俗などを徹底的に調べて落語を演じた。
 日本の文化を語るのは、落語を見なければならない、という話をよく聴く。先週テレビを見ながら、それは、こういうことだったのか、ということを感じた。
 まず、落語というのは師匠から弟子へと伝えていくのだという。基本的に「教本」のような物は存在しない。僕は、テキストというのは普遍的なことを学ぶのには適していると思うけれど、刻一刻と変化していくことについてはあまり適していないと思う。落語はその時代を反映するために教本を持たないのかも知れない。
 また、落語は人間、社会観察の上に成り立っている。ある落語があるとするならば、その人間関係を、1人の落語家が舞台の上で構築するために、人間の細かい仕草や動作をつぶさに再現する。そのためには街中の人がどういうときにはどういう行動をとるのが自然であるかを知らなければならない。
 落語の物語を構築する上では、その時代の社会性は必要不可欠だ。いくら動作が人の理にかなっていたとしても、そんなこと絶対に起こらないよ、おかしいよ、ということは落語ではないと思う。時代の社会性人間性を根本に持っていなければ落語は成立しないのだと思う。

 これらはとにもかくにも、落語が日本の娯楽だったからだと思う。見に来た人が日常の雑事を忘れて、しばし楽しい時間を過ごす。そのために、演じる側は舞台の上に落語の世界を作る。見る人の日常から離れているのだけれど、あくまで隣の街で起こってそうな事が作り上げらる。


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