座頭市

 先週、北野武の「座頭市」を見てきた。この、座頭市という映画はかつて、勝新太郎が主役を演じたことで有名らしい。らしいというのは、僕は勝新太郎が演じた座頭市を全然知らないからだ。座頭市そのものも相当有名なのだと思うけれど、僕は全然しらなかった。僕は、映画にしろ、本にしろ何の先入観も無く見たり呼んだりするのが好きだからむしろ良かったと思う。

 元々、北野武には興味があったし、映画も見てみたいと思っていた。でも、なかなか映画館に足が向かわずにいた。結局、「HANA-BI」がベネチア国際映画祭でグランプリを取ってから見に行くようになった。結局の所は、はやりモノに弱いだけなのかもしれない。
 「HANA-BI」は強烈に僕の印象に残ることになる。北野武の映画は暴力だとか、恐ろしいとか、言う批判を受ける。たしかに、北野映画の中には恐怖や暴力が存在する。でも、北野映画の暴力や恐怖というのは、ゲーム、アニメなどで良く批判を受ける「見て子供たちがまねをする」種のような暴力ではない(ゲーム・アニメの暴力シーンがすべて悪いと言っているのでもない)。
 おそらく作家、大塚英志の言葉だったと思うが「ゲームような空想の暴力ではなく、現実の暴力は簡単に真似とか出来る事じゃない。僕らはそういうことを伝えて行かなくちゃ行けない」と言うような言葉を聞いたことがある。
 北野武の映画の中にある暴力や恐怖を覚えるシーンというのも、「現実」のシーンなのだと思う。心に突き刺さり、痛みを感じ、悲しみ、また嫌悪さえもする。真似をしようとか言う考えは浮かんでこない。
 また、北野映画の暴力には深いところで共感できるのだ。間違っても、暴力を肯定する気はない。けれど、僕ら、人間の中には暴力性が潜んでいるのも事実だ。そして、僕らの暴力性は何かを境に爆発するんだと思う。そうしてあらわれる暴力は、模倣品ではなく、ごく自然に湧いてくるもので、かつ、とてつもない、憎悪であるとか、愛であるとか、そういうエネルギーを持っているのだと思う。
 お、座頭市の感想の前に紙面がつきてしまった。
 


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