テールライト

 夜のクルマのテールライト。少し高いところに登ったり、ビルから見る、流れるクルマのテールライトを見ていると、なぜか、懐かしさや寂しさを覚える。

 多くの人が夜景はすきだと思う。僕も夜景は大好きだ。日本の夜景3名所といわれる函館、神戸、長崎のうち、函館と長崎は行ったことがある。どちらも、山の上から見る夜景は圧巻で、特に冬に行った函館の夜景は空気が澄んでいて、本当に夜空に宝石をちりばめたようだった。寒さを忘れて、しばし夜景に見入ってしまった。でも、函館山や稲佐山(長崎)から夜景を見ていても、哀愁はあまり感じない。
 夜、一人で歩いているときの街灯も少しばかり哀愁をかきたててくれる。街灯が照らす所だけ、ふうっと浮かびあがる道路。街灯に照らし出されてしまう街路樹。ちょっと、気分が沈んだときに通ると、そのむなしさばかりを感じてしまう。
 それよりも、小高い丘、橋やビルの上から見る、クルマのテールライトは格別な気がする。赤い光がスーッと遠ざかっていく。それは少し悲しい。なんで、って聞かれると、難しいけど、テールライトはちょっとした悲しみの象徴だと思う。自分から遠ざかってしまう物、そんな物の象徴なのかも知れない。中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」にも影響され、テールライトのイメージが膨らんでいるのかも知れない。
 そして、テールライトは悲しさだけじゃなくて、懐かしさも持っているように、思う。中島みゆきの歌の影響もあるかも知れない。でも、それだけじゃなくて、家路へ向かう時のイメージと、赤いテールライトが重なるのかもしれない。夕方、暗くなって来て、クルマがテールライトをつけはじめる時間、ちょっと家が恋しくなって、懐かしくなって、帰ろうかな、と思う時間。そういう時間がテールライトの光と重なるのかも知れない。赤い光の持つ暖かみのせいなのかも知れない。

 この前、何かの時に、ちょっと高いところからクルマの列を眺めていてそんなことを思った。久々に、目の前の光景にイメージをかき立てられて、自分が写真を好きなことを思い出した。


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