写真・文章

first shot
"first shot"

高校入学祝いで一眼レフカメラを買ってもらいはじめて撮った写真
横浜市こどもの国

 ごくごく個人的な事を書かせてもらいたいと思う。僕にとって、写真とは、文章とは何なのだろうか。

 写真も文章も僕らが社会生活をしていく上で必要なものになっている。新聞で写真入りのニュースを見て、学校や会社へ行き教科書や書類を読み、作文をしたり書類をまとめる。本を読んだり、旅行に行って写真を撮る。でも、僕と写真や文章との関わりはそれ以上に深い。
 こういうエッセイみたいなのは中学校の時から時たま書いていて、写真は高校の部活で始めた。
 昔は小説みたいなのも書いた。中学校のクラスではちょっとした人気を博していたし(?)、1作だけちょっとしたコンクールにもおくったことがある(橋にも棒にもかからなかったが)。今、若い人の芥川賞が話題になっているけど、若い作家の活躍を耳にすると、まるで自分の仲間が活躍しているように感じてとてもうれしい。
 高校に入ると、色々な縁で写真部に入った。それから今日まで約11年間、途中多少休んだりしながら続けて来た。その中でちょっと僕の心に引っかかる二つのエピソードがある。
 一つは有名な話で、ケビン・カーター氏の『ハゲワシと少女』という写真だ。幼い少女が死に近づき、それをハゲワシが食べようとねらっている写真だ。その時写真家は、まず少女を助けるべきか、まず写真を撮るべきか。カーター氏は写真を撮った。その写真は僕らの心に深く突き刺さる写真として、高く評価され、1994年ピューリッツァー賞を受賞する。しかし、多くの批判もうけ、彼は自殺してしまう。
 僕はそんな影響力のある写真は撮ったことはないけど、多少なりとも写真に関わる者としては心に刻み、その時自分ならという事を考えておかなければならないと思う。
 もう一つはとても身近な話で、友人達とひらいていた写真展の会場で通りすがりの方が「写真かぁ、写真は簡単に撮れるからな。絵だったらなぁ」と言っていたことだ。いや、写真だってと思ったけれど、なかなか難しいことだ。カーター氏の写真のように、写真でしかなしえないこともある。僕らは写真にしかできないこと、自分の写真にしか出来ないことを考え、撮り続けていかなければならないのだと思う。

 写真にも思い入れが深いけど、文章への思い入れも深い。思いのこもった写真を撮るのも難しいけど、自分の思うことが伝わる文章を書くのも難しい。ここ5年間、このコーナーだけでも、のべ250の事を書いてきた。果たして、そのどれだけの文章が人の心を温かくできたか、わくわくさせることが出来たか、何か考えてみようか、という気にできたか。正直なところ、自分の満足で終わっている部分が多く、周りに何か影響を与えられたか、というとかなり疑問がある。文を書くのにもテクニックがいるし、テクニックだけでは単なる入れ物に終わってしまう。僕は、その両方が中途半端だと思う。筆の持つ力もとてつもなく大きい、僕らはやっぱりそこで文章にしかできないことを探し昇華し続けなくてはいけないんだと思う。

 この歳にして、こういうことを言うのはおこがましいけれど、写真にしろ文章にしろ、自分を表現することは自分自身なんだと思う。僕の撮る写真、僕の書く文章は良くも悪くも僕もつ全てが投影されてつくられていると思う。生きているうちは人生が完結しないように、僕にとっての写真や文章も終わらないと思う。

ケビン・カーター氏 http://picturenet.co.za/photographers/kc/


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